「滑らない話」の話し方
「面白くするために、我慢できているか?」


とある、プレゼンテーション。
写真をモニターに映しながら、
過去の仕事を報告するものです。
いつ、どこで、誰が、何を、どのように、どうした。
そういった客観情報の羅列で
報告は進んでいくのですが、
そのプレゼンが聴衆を惹きつけたのは、
そのような客観情報に、
絶妙のタイミングで、
報告者の主観的な見解が、短く付け加えられていたからでした。
時として、それはユーモアであったり、
皮肉であったり、
提言であったり、
示唆であったり。
聴衆はそれを楽しみに、
客観情報を「前振り」として聞くわけですね。
客観情報に付け加える主観的な見解というのは、
いつ、どこで・・などといった、いわゆる5w1hのそれぞれの要素を
もう一段階、掘り下げたところに存在しています。
「なぜ」
その時、その場所、その人、そのように、そうした、のか?
あるいは、
それらについて、
「その時どう感じたか?」「それを今、どう思うか?」
という、
話し手の意志が反映された要素です。
もっとも、
客観情報だけを並べて、面白い、というケースもあるのですが、
それは「並べ方」のなかに、話し手の意図が込められているところが面白いから、
なのだと思います。
いずれにしても、
話の面白み、というのは、
そういうところにあるわけで、
あとはそれを、
どこまで面白くできるかという度合い、深みの問題になってきます。

話が面白くならないのは、なぜか?

話が面白くない人、とは、
大きくふたつに大別されると思います。
それは、
自分の話なんか・・と卑下しているのかどうなのかはわかりませんが、
何らかの自分の意志を表すのが苦手な人。
もう一方はその反対に、
私は私は、と
自分のことを押し出しすぎるタイプ。
やはりそこも、
バランスとメリハリが大事なのですね。
その人の意志が反映されていない話が面白くないのはともかく、
私は、と
自分のことをきちんと打ち出しているのに、
話が面白くならないのは、なぜなのでしょうか。
それは、
主観的な発言には、
「説得力」が必要だからだと思います。
主観的な発言をきちんと面白い話にすることができる人は、
その主観を語るに至るまでに、
こつこつと客観情報を積み上げて、説得力を備えるのが、上手いのです。

「滑らない話」は、なぜ滑らないのか?

「すべらない話」というテレビ番組があります。
お笑い芸人さん達が、
どこで話しても必ずウケるという、いわゆる鉄板ネタを披露しあう番組なのですが、
彼らの話の共通点は、
笑いに至るまでの時間を、
こつこつこつこつと、客観情報を語ることに費やしている、ということです。
最終的に笑ってもらうための、土台、伏線を張るためのトークが
その話の大部分を占めているのです。
その土台、ロケットの発射台が高ければ高いほど、
最後の笑いが、大きく、
ロケットは遠くまで飛びますから、
できるだけ、高い発射台を築くために、
我慢しながら話すのです。
そして、
話の「オチ」というロケットが発射されるや、
なぜ?
そして、どう思った?
という主観的な発言を繰り出します。
これが、
話を面白くするための、話し手の演出です。
逆に言うと、私は私は、
と、普段から押し出しが強い人の話が、面白がられないのは、
客観情報の積み上げが少なく、
説得力がないから、なのですね。

重要な聞かせどころのために、我慢する

伝えたいことを思い通りに伝えるために、
内容の重要度によってメリハリをつける、ということは、
前回説明しました。
その、重要な話、というところに、
今回の、主観性と客観性、という考え方を加えてみましょう。
上記のすべらない話における「オチ」は、
別に、笑うためのものでなくてもいいのです。
重要な聞かせどころ、ということです。
その重要な聞かせどころを
効果的に伝えるために、
客観情報をこつこつと積み上げる。
これは、
ある意味、我慢なのですが、
話の面白い人は、
我慢しながら、話を面白くする演出をしているのだ、と考えると、
我慢していない自分の話が、面白くないのも当然か、と
その姿勢を改めることができるかもしれません・・

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